武蔵野の新田開発

 

江戸時代初期から、武蔵野の原野を畑に変える新田開発が各地で行われました。

江戸時代以前の武蔵野は、見渡す限りチガヤやススキが生い茂る原野(萱原(かやはら))でした。周辺の村々にとっては、堆肥の原料や馬の餌、屋根葺きの材料にする草刈り場(秣場(まぐさば))であり、共同で利用する入会地(いりあいち)として利用されていました。

江戸時代に入ると、新たに耕作地を拡大して年貢を増やすため、新田開発が各地で進められました。川越藩により堀金村(現・堀兼)や上赤坂村、水野村も開発され、秣場の範囲が狭められていった結果、秣場をめぐる争い(秣場論争)が起こりました。

1650年頃(承応年間)、川越藩主・松平信綱によって堀金村・上赤坂村・中新田村が、1666年(寛文6年)、松平輝綱によって水野村が開拓されました。それ以降、開発は東方に進み、1694年(元禄7年)、柳沢吉保によって三富(さんとめ)(上富・中富・下富)が開かれました。

近村から次男、三男が入植し、井戸(お助け井戸)を掘ってもらい、農具を貸与されました。約3haの短冊状の土地が与えられ、長さ約430m、幅約36mと細長く地割され、道に面した方から屋敷地、耕地、そして後方にヤマ(平地林)が配置されました。

家を囲む屋敷林に竹、ケヤキ、スギ、シラカシなどが植えられ、防風と防火の役目を果たします。道路や境界にはスギやヒノキを植え、家を造る時の木材として育てられました。

耕地は短冊形に分け、真ん中に耕作道(野良道)を作り、畑の土が強風で飛ばされないように、畑と畑の境にウツギ、後に茶の木が植えられました。

ヤマと呼ばれた平地林(農用林、雑木林)には、コナラやクヌギなどの落葉広葉樹やアカマツが植えられ、農民は平地林から落ち葉を集め(くずはき)堆肥を作り、これを畑にすきこんで栄養の乏しい土壌を改良して来ました。

また、燃料になる薪や粗朶(そだ)を取るために1520年の若木を伐採して「萌芽更新」を繰り返してきました。クヌギやコナラは萠芽力が強く、伐採された木の株からは、やがて多くのひごばえ (萠芽)が出てきます。そのうち成長のよい何本かを残して、平地林の再生を図る方式が崩芽更新です。現在、私達が見ている平地林の多くは、このように農民の手によって管理・育成されてきた二次林です。

平地林は、降水を保水し、貯水池の役割も果たしています。

1898(明治31)、国木田独歩は、名作『武蔵野』で東京近郊に残された雑木林の美しさを広く日本人に広めました。そして現在も、平地林は美しい景観を誇っています。

水の循環を安定させ、暑さを和らげ、生物の多様性を育み、環境に配慮した循環型農業が行われています。将来に受け継がれるべき伝統的な農業システムは、2017(平成29)3月、農林水産省から「武蔵野の落ち葉堆肥農法」として日本農業遺産に認定されました。武蔵野を代表するこの原風景を、未来を担う子ども達に残さなければなりません。

 

 「世界農業遺産」に認定           2023年(令和5年)76日 

 落ち葉を堆肥に利用する循環型の農法が江戸時代から続けられている埼玉県三芳町などがFAO=国連食糧農業機関から「世界農業遺産」に認定されました。「世界農業遺産」は、伝統的な農業などに取り組む地域をFAO=国連食糧農業機関が認定するものです。
埼玉県三芳町や川越市、などの武蔵野地域は、江戸時代から栄養分の少ない土地に木を植えてその落ち葉を堆肥として利用し生産性を向上させてきました。
農林水産省などによりますと、都市近郊でこうした循環型の伝統的な農法が継承され、地域の景観や動植物の生育環境を維持してきたことなどが評価されたということです。日本で世界遺産に認定された地域は15か所となり、関東地方では初めてです。  ※埼玉県武蔵野地域(三芳町・川越市・所沢市・ふじみ野市) NHK NEWS WEBより  文
責:権田則子


歴史ある里地里山の風景